百花斉放百家争鳴、反右派闘争

1956年5月2日、毛沢東は最高国務会議で「共産党への批判を歓迎する」として、「百花斉放百家争鳴」を提唱した。百花斉放百家争鳴とは「多彩な文化を開花させ、多様な意見を論争する」ということである。 百花運動は党中央宣伝部長の陸定一らが担当し、国内の知識人の参加を呼びかけたが、当初は三反五反運動や胡風に対する弾圧などで自由に意見を言うことは憚られ、あまり盛り上がらなかった。 1957年2月27日、毛沢東は「民主的諸政党」の代表者や中国共産党の幹部を呼んで最高国務会議を招集し、改めて中国共産党に対する批判を呼びかけた。さらに1957年3月6日から13日にかけて全国宣伝工作者会議でもさらに中国共産党に対する批判を呼びかけた。 これ以後、知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始めるようになり、時がたつにつれてその批判は強烈なものに変わっていった。知識人たちは共産党が中華人民共和国を支配することに異を唱え始め、毛沢東の指導力まで公に批判されるようになった。 1957年5月15日、毛沢東は批判続出の事態に危機を感じ、新聞に対して党の批判とあわせて「右派」に対する批判も行うように奨励し、党中央宣伝部長の胡喬木に対して「右派」を批判する準備を行うように命じた。 1957年6月8日、人民日報は「右派分子が社会主義を攻撃している」という毛沢東が執筆した社説を掲載し、6月14日には文匯報と光明日報を名指しで批判した。 1957年6月19日、人民日報に毛沢東が2月27日に行った演説を「転載」したとされる記事(実際には改変された記事)が掲載された。これによって党を思い切って批判した知識人たちは毛沢東によって社会主義政権破壊を画策した「右派」というレッテルを貼られた。 この時から、知識人の粛清運動である反右派闘争が始まった。1957年10月15日、党中央は「右派分子を決める基準」通知を出した。 1958年には55万人の右派が辺境への労働改造や失職などの憂き目に遭い、その多くが大飢饉による飢餓や処刑・拷問・衰弱などで死亡した。